美しいものにいつもほほえんでいたい

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いま思うこと ~第11回 八月は単純に暑い季節ではない~

八月六日は広島原爆記念日、九日は長崎原爆記念日、そして十五日は終戦記念日と、平和と戦争について考える日が続きます。
原爆記念日は、広島や長崎の人にとっては終生忘れることができない日で、平和と戦争について、次世代へ語り継がなければならいという意志を強くもっておられます。
それは群馬の人とは比較になりません。

私が高校の教師をしていた一昔前のことですが、夏休み中の全校招集日を給料日と重ねて計画することがよくありました。
後にこのことが問題になり、その日を避けるようになりました。
のんびりとした時代であったと思いますが、この八月の戦争に関する諸記念日を招集日と決め、担任の先生からその日にかかわる平和と戦争についての話があるところがありました。
それは西日本の学校に多くみられました。

ある年の夏に福岡の友人の家を訪れた時でした。
夏休みの招集日は、六、九、十五日だと話してくれました。
九日の朝、友人の娘三人が登校していった姿を思い出します。
「今日は学校で何をするの」と愚問を発しました。
すると、三人娘は口をそろえて「原爆と平和について、先生がお話してくれるの」と答えました。
群馬ではこうした招集日をしているところがあるのだろうか、また、教師がその日に関してどれほどの知識と見識をもっているだろうかと、考え込んでしまいました。

このごろ、よきにつけあしきにつけ教師に関して、いろいろと報道されています。
五十年まえとは状況が違うことは当たり前ですが、教育と教師の基本的な姿勢はそう変わることはありません。
いつでも生徒の目線で教師は考えるということと、次世代へ伝えなければならないことは何かという哲学をもっていることです。
このごろの教育の様子をみていますと、場当たり的なことが目立ちます。
生徒や保護者のニーズにこたえることを優先させるという姿勢はそのことをよく物語っています。
今の教師は、頻繁に起きる目先の課題に追い回され、地球の将来像や人間のありかたに関しての見識を深める機会がありません。
にもかかわらず要求・期待されることが多くあります。
保護者は自分の子供だけのことしか考えておりません。
それは、入学式や運動会など、自分の子供の姿をヴィデオカメラで追い回す姿や、学習に関して「うちの子の成績さえよければ」ということばなどから、考えられます。

今、日本は極限状況下におかれてはいません。
しかし、ガソリンの値上げなどを考えますと、かなり悪い状況が迫っていると感じます。
先に述べたように教育も教師も保護者も目先にとらわれた思考しかできないとしたら、オイル不足による生活の状況を想像することができません。
こう考えてきますと、今一番必要なことは、感性の覚醒ということです。
想像力を鍛えるには、この感性からです。
その感性は、芸術との接点から生まれます。
それは、いつの時代でも精神に余裕のある人しかできないのかもしれません。
経済的にゆとりがあっても、その人の精神や環境に、感性の豊かさがなければ意味がありません。

 暑い夏、だから考えるのです。
考える材料は世界で一番恵まれているのです。
人類初の原爆の体験をしているのです。
その教材を教師が忘れてはいないでしょうか。

●教材から戦争文学の作品がなくなった。

最近の高校の国語の教科書を開くと、基本的なことを軸にした教材を採録したものと、受験向きに硬質な文章を載せたものとがあることに、気付かされます。
学校による生徒のレベルとの関連があると思われますが、明らかに二極化がすすんでいると感じます。
三年生になって主に用いられる「現代文」の教材は、いわゆる「現代国語」の時代のものが多くみられますが、以前に比べて、教材の内容はわかりやすくなっていますと同時に、教材の分量が少なくなっています。
五日制ということもあるのでしょうが、このところの指導要領の改訂ごとに、国語がないがしろの傾向が強くありました。

次期学習指導要領の改訂で、このあたりが変わるようです。
文部科学省は、国語を他教科も含めた学習の基本と位置づけ、特に「論理的にものを考える力」を養うことに力を入れるようです。
これまで高校の国語の授業は、文学作品を主体にした感情や情緒の読み解きが中心としてきました。
思考力をはぐくむための指導があまりなされてこなかったという認識が、関係者の間にあったようです。

机上のことで論議をしても始まらないと私は思います。
「思考力」を高めるということの第一歩は、現代に関してどのような問題意識を持っているかということだと考えるからです。
文学作品を単に感情や情緒による読解ですませてきたこともありましょうが、教師の姿勢によって、文学作品からいくらでも「思考力」を養う授業はできるのです。
三好達治の「太郎の屋根に雪降りつむ 次郎の屋根に雪降りつむ」の詩を教室で扱う時、教師は説明のしようがなく、どうしたらと思う教師が多いといわれています。
こうした誰にも分かる詩ですが、教師の姿勢によって、いろいろな問題意識が生徒の間に芽生えさせることができるのではないかと思います。
例えば「太郎」の名で代表される歴史上の人物、また身の回りの人にはいないかなど、それぞれの「太郎」の人生をうかがわせることによって、問題意識が生まれてくると思います。
「はだしのゲン」ではありませんが、原爆でなくなった「太郎」もいるでしょうし、白血病で亡くなった「太郎」もいるでしょう。
こうした人物像を作り上げることによって、「思考力」の核ができていくのではないかと思うのです。

高校国語の教科書から「戦争文学」の姿がみられないということは、現代の問題意識の原点を無くしていることにつながります。
平和とか核抑制とか、現代人が抱える問題のほとんどが、戦争にかかわることです。
その考えるきっかけの教材がないということは、「思考力」を意識させることは難しいことです。
目先のことに追われ(主に受験)、自分や自分にかかわるものだけを考えること(自分さえよければよい・自分のこどもさえできればよいのだ)をよしとする風潮が強いだけに、教師の相当な覚悟と、研鑽が必要になります。
戦争文学に関しては、次に触れてみます。

八月は暑いのですが、一番「思考力」を鍛える時でもあるのです。
身近に問題とするべき課題が多く存在していることに、気付く季節であるからです。
昭和天皇が靖国合祀について不快感をもっておられたというメモについても、八月は考える核が沢山あります。

(2006年8月掲載)