美しいものにいつもほほえんでいたい

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いま思うこと ~第10回 「若者が落語に耳を傾けるようになった」と聞いて考えたこと~

TVの番組がつまらいないという声が聞こえます。
例えば野球放送にしても特定のチームを応援する人にしか興味がわかないというのです。
これに関しては伝統的なチームの目に余る凋落ぶりが、一層拍車をかけたともいえましょうか。
また、本場の野球が絶えず見られることもあってか、TVを見るものの目が肥えてきたことが大きいと思います。
つまり本物志向になったということです。
こうしたことは、制作費用をかけずに番組が構成できるといった局側の台所事情によって、お笑いタレントを登場させての安易なクイズ番組などが目立ちますが、これに対して一種のあきとお笑いの原点を求める志向が強くなってきたのではないかと感じます。
吉本興業的なお笑い芸人の世界にあきがきているのも事実でしょう。
こうした現象については深く考えなければなりませんが、このごろ落語に興味をもつ若者が多くなってきたことは、笑いの本物志向がでてきたのではないかと、私は考えます。
地方ではこうした現象ははっきりと見られませんが、東京では顕著になってきているといわれます。

このことを裏書きするように、雑誌『文學界』九月号で「落語探求」を特集していました。
立川談志と劇作家澤田隆治との対談「家元、文学を語る」をはじめに、橋本治の「落語のルーツは源氏物語かもしれない」、小谷野敦の「落語を聴かない者は日本文化を語るな」、そして春風亭昇太と立川談春の「落語の自由」という対談が掲載されています。
すでにお読みの方もおられましょうが、興味のあるかたは図書館などでお読みいただけたらと思います。

この特集で一貫してながれている考えは、落語が文学と深くかかわっていることです。
談志は「俺は文学はわかりやすくなきゃダメだと思うよ。
そりゃわかりにくいものがあっていいけれど、わかりやすいっていうと馬鹿にされるから、わざとわかりにくくするなんていうのはおかしな話でしょう。
基本的にわかりやすく書いてくれなかったらどうにもならねえな。血湧き肉躍るでなきゃダメだよ、文学は。」と述べています。

この言葉までに話題になっていた作家は、岡本綺堂・子母沢寛・司馬遼太郎です。
大衆作家としてあまり評価されない作家たちですが、「語り」のうまさと江戸っ子だということが落語家にとって重要であるといっています。
子母沢寛も司馬遼太郎も江戸っ子ではありませんが、談志は「生まれは京都であろうが、ベトナムだろうがどうでもいい。
要は御一新の時にどっちに味方すかって、それなんだ」と啖呵をきっています。

さらに談志師匠は「小説家は資料だけじゃ書けないから、さっき言ったように、登場人物に命を吹き込んだのは司馬さんの仕事だからね。」といい、庶民感情をいかに表現しているかによって、文学作品の価値観がわかれるのではないかと述べています。
その庶民感情を代弁するのが落語家の役目、それを言える場が寄席です。
ところが現代ではセクシャルハラスメントということから、差別用語は禁じられ、人権にかかわる言葉についてはかなりの制約ができました。
刑法までできたわけです。

落語の言葉遣いが非難され、あののびのびとした言葉による人間性を押し出した話ができなくなってしまいました。
ですから、TVの画面で本当の落語が語られなくなりました。
時に放映されても、テロップでことわりをださなければいけなくなりました。
にもかかわらず、政治家の発言には時として問題があります。
それはそのままです。何かおかしいと庶民が気付き始め、このことが落語への関心がたかまってきたひとつでもあると、私は考えます。

ただ落語は単なる笑い話ではありません。
談志師匠も語っていますが、落語を聴くための常識が必要です。
常識というより共通の感性といいますか、落語の世界に入るにはその約束事のようなことです。
こんなことを知らないのかでは、話になりません。
落語家が話しの解説をいちいちしていては、それこそ話になりません。
つまり一定の教養を共有していなければならないということです。

このあたりのことが理解されないままに落語ブームになったとしたら間違いだと思います。
ところがこのごろの若者は落語についての学習をするようになってきました。
といいますのは、落語に参考になる書物がよく読まれるようになったというのです。
近世語、つまり江戸語についての関心が強くなってきたということです。

この言葉に関心をもつという現象こそ、人間の心の世界に入り込む第一歩になります。
その言葉のもっている意味の厚みといったようなことを掴むようになるからです。
おもしろおかしい語呂合わせや駄洒落ではなく、人間の本質をつくことばを知っていくということです。

話題を変えますが、談志師匠の読書のすさまじさをここで書くことはできませんが、よい落語家は多くの教養をそなえています。
そのために多読の日々であることをお忘れなく。
軽い表層的な笑いをとるピン芸人は、そのネタのために膨大なメモをとっています。
その厚みによって、競争の激しい多くの芸人の中で生き延びることができるのだと思います。

落語に関心を寄せる人は、知的労働者だと私は思います。

(2005年10月掲載)