美しいものにいつもほほえんでいたい

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いま思うこと ~第8回 世界文化遺産のこと~

明治5年に建てられた官営冨岡製糸工場を世界文化遺産に登録しようとする運動が、関係者によって始まっています。
北海道の知床半島の自然とくらべてみるとその規模には格段の差があります。
自然と人間の文化との違いにもよりますが、それ以上に文化遺産として対象になるものが、現代に生きる人たちにどのような精神的な支えになっているかという課題に、回答する用意があるかということです。
わかりやすくいえば、冨岡地区だけでなく、それをとりまく西毛地区や県民にとって、冨岡製糸工場の建造物がどのように精神生活の支えとかかわっているかということです。

発掘した古代遺跡のすべてを保存するということはできません。
その遺跡の現代性を考えた上で保存の対象になるかどうかを、決めていくのだと思います。このことは世界文化遺産という、世界という語に注目しなければなりません。
つまり人間にとっての遺産として評価できるかどうかです。
お国自慢的な世界文化遺産の主張ではないということです。

冨岡製糸工場について、冨岡の人たちが日常どのように接しているか、どのような精神生活とかかわっているのか、文化財としてどのようにこれまで住民が努力してきたかなど、問われるということです。
単に大切なものというだけでは世界文化遺産にはなりません。
世界遺産登録までには相当な時間がかかるのではないかと思います。
10年、20年と運動を展開していく強い意志をもっていなければと思います。
それには、行政に携わる人たちが第一線に立つことだと思います。
つまり富岡市役所の人たちの学習からです。
次に次世代に対しての運動の展開です。
つまり教育の場での冨岡製糸工場についての学習です。
郷土教育についてほとんどなされていない現状を踏まえ、教師に対しての徹底した文化財教育をすることです。
冨岡地区に勤務する先生方は、それなりの自負をもってもらうということです。
そして、児童・生徒を取り囲む父兄への啓蒙です。
これは教育委員会の社会教育との関連があると思います。

教育という語を多く用いましたが、教育の語は学校だけでないということです。
こうしてみると単純に世界文化遺産登録はできないのです。
以前、高崎とウィーンとが姉妹都市になると報道され騒いだことがありました。
とんでもないと思っていました。
音楽に関しての市民の教養のレベルをはじめ、教育における音楽の位置、日常の音楽鑑賞のありようなど、ウィーン市民と比べてどうにもならないと思ったからです。
今、冨岡製糸工場に関しての一連のニュースをみていて、その時と同じ思いがします。

(2005年8月掲載)