美しいものにいつもほほえんでいたい

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いま思うこと ~第7回 「生涯学習とは」の再検討(4)~

『50歳から日本の古典を読んでみませんか?-源氏物語を読んで30年-』を、蘇芳の会の30周年記念に出版しました。
生涯教育を30年実践してきてのひとつのまとめです。
何故源氏物語を読むという行為を続けてきたのだろうかという、根本のことに触れながら書きました。
特に、源氏物語に関しては一種の流行現象がありますが、それとは別の日本の古典に向き合う人たちの姿勢が、口語訳の源氏物語を読むのではなく、原典を読みながら考え鑑賞していくことを述べました。

簡単に耳学問で源氏物語を知ったという表層的な学習はなく、原典から直接自分自身で理解していく、いわば時間のかかる手仕事的な学習です。
この姿勢は、「女のくどき方を学べます」「女たらしのプレイボーイ光源氏」といった、世の中に流布している源氏物語についての誤った情報への挑戦でもあります。
原典に触れることは、真実を知ることに通じます。
それは源氏物語について、あまりにも勝手なものの言いように満ちあふれていることが分かります。

俗世間に源氏物語を引き下ろした元凶は、売らんかなの出版ジャーナリズムです。
おもしろければいい、インパクトがあればいいといった、きわもの的な出版物が多いことによっても理解されましょう。
また、それとは別に、こうしたことに無関心である国文学関係の人たちにも責任があります。
すぐれた研究成果をあげられた学者も多くおられますが、このごろの専門雑誌に掲載されている源氏物語に関しての論文を読みますと、研究のための素材としてしか源氏物語を取り扱っておらず、文学作品として考える人が少ないと感じます。
紫式部が何を書きたかったかの議論がないのも、研究のための源氏物語であることがうかがえます。
つまり研究の成果が、日本人・日本文化・日本思想についてどのようにかかわったのかがないからです。
研究がわずかの研究仲間だけのことになってはいないかということです。
このごろ市民文化講座などに第一線の源氏学者が講師として講演する機会が多くなりましたが、一般人の源氏物語への関心と課題とにずれが大きいと感じます。
学者の関心は、必ずしも一般人と共通してはいません。学者の関心事に現代性がないからです。

これまでと違って少々ヒステリックなもののいいようになりましたが、一般の人と源氏物語を30年読んで学んだことの自信が、ストレートに言わせているのだと思います。
それこそ生活者に源氏物語を語る自信がおありですかと、専門家に尋ねたいのです。

■狂言を観る会 第15回公演を鑑賞して

平成17年6月30日の夜、高崎シティギャラリー・コアホールで大蔵流山本家狂言二百曲全曲公演の第15回公演がありました。
これまでになく多くの人たちが参加くださいました。
当日、家元の山本東次郎氏は、パリから帰国して間もなく北海道の公演をされるというご多忙の中で、お疲れにもかかわらず熱演されました。

特に「三人片輪」は、上演にあたっての稽古はなさらず、二十年振りの本番上演とかで、三兄弟の息のあった演技は、さながら芸の闘いを見るようでした。
それぞれが大蔵流伝統芸の稽古を徹底されてきたことが、時を超えて打合せもなく、己が伝承している芸をこれぞとぶつけあう演技に、思わず息をのみ引き込まれました。

激しく熱のこもったご兄弟の芸の闘い、もしかしたら二度と見られないのではないかと感じました。
それほど感動的な狂言を鑑賞できることは、幸せであると思いました。
悪条件の仮の舞台にもかかわらず、ひたすら狂言を演ずる山本家の熱い演技に、一段と高い拍手がおこりました。

古典芸能ですので、ことばを現代語にいいかえる事はしません。
「三人片輪」は現代風に言えば、「唖者(おし)」「いざり」「座頭」など、差別語が多く用いられています。
確かに現代語では使えない語になりましたが、だからといって身体の不自由な人たちへの思いやりが、以前よりましてよくなったとはいえません。
言葉遣いだけをいくら相手を気遣って注意したところで、心をないがしろにしていては、表面的なことでやりすごしてしまいます。
時にこうした古典の中で用いられているあからさまな表現に、あらためて相手を気遣わなければいけないと、日常の言葉遣いに反省させられるものです。

狂言の笑いは、笑わせるのを目的にした現代の芸人の笑いとは違います。
狂言をお笑いと同等に考えている人がいますが、それは間違いです。
ギャグやしぐさによって笑いをとるのではなく、語られる内容や、稽古によって培われたしぐさと、観る者の問題意識とが重なって生じる笑いです。
言い換えれば、ある種の教養にうらうちされた知性から、自然とわきでてくる笑いです。
これが「上階の笑い」ということなのではないでしょうか。

笑いについてとやかく述べることははばかられます。
つまり「おもしろいからでいいではないか」といわれるからです。
しかし、なんでもかんでも「笑える」からいいという考えは、いろいろな立場にある人を無視することになります。
狂言の笑いは、現代人の笑いの感性をより豊かなものへ覚醒させてくれます。
ですから観て戴きたいのです。

■敬語のこと

日本語世論調査に関して、文化庁がこの十二日に発表しました。
その中で若者に限らず「敬語」の使い方が分からなくなっている現状の報告が、特に目をひきました。
敬語の使い方が間違っている傾向を強く感じているものの、それを訂正する敬語に関して自信がないと言う人が多いというのです。

日本語の敬語は、ヨーロッパ語とは違います。
日本語では、相手との上下関係、親疎の間柄、住むところの遠近の三点を、即座に認識して敬語を用いることです。
話し相手を意識しているということです。
つまり、いつでも相手の立場を自分がどのように理解しているかが問われるのです。
これは長い間、日本語以外の言葉を用いて日本で生活している人の文化があまり発達してこなかったことにもよります。
例えば、言語や生活習慣を異にする人たちが、日本にはあまり住んでいなかったということです。
日本語だけでの生活の歴史が長いのです。
小学校での全体集会で、教師が号令をかけて全体が号令通りに行動することができるのもその一例です。
パリなどでは「右へならえ」と号令されても、一斉に生徒が同じ方向に向くことはないとききます。
言語が通じていないからです。

こうした状況からみていくと、会話は自分が主体であり、相手の立場よりも自分の立場を主張するのがまず第一になります。
今の日本人が敬語について自信がなくなってきたのは、ヨーロッパ的な言語観による教育がなされてきたことにもよると感じます。
同時に言語生活は、以前のままですので、ここにギャップが生じるのだと思います。
強調したいのは「ためことば」の現実です。
若者同士の言葉ですので、仲間うちではいいとは思いますが、相手の立場を考えないでそのままの仲間内での会話をしますと、相手によっては不快になります。
若者だけでなく、親世代も同様に「ためことば」ですごしている人を多くみかけます。この状況は、相手の立場を考えない言語生活をしているということになります。
幼稚園児が「センコウ」と先生のことをいうことが日常的なところもあると聞きます。

人間は社会的動物です。
人とかかわりながら生きているのです。
敬語は基本的人権を意識しているかどうかにあると考えます。
「オイシイ」とだけですべての食べ物の味を表現されてはたまらないと感じていますので、「ビミョウ」「ヤバイ」という言葉で物事を判断されては困ります。
こう書いている人間は「ウザイ」ですか。
文化差が生じてきている日本で、言葉によって人間を区別するようになったら大変です。
まわりをみますと、徐々にですが、言葉による人間集団の差がでてきているように感じます。

(2005年7月掲載)