美しいものにいつもほほえんでいたい

美しいものにいつもほほえんでいたい

いま思うこと ~第5回 「生涯学習とは」の再検討(2)~

しばらくお休みしていました。
私事ですが、この二、三月と十年ぶりの大風邪を三度も患い、臥せっておりました。
ようやく桜の花が咲き始めるころから、気力が整いはじめ、これまで滞っていた仕事をやり始めました。
そして、源氏物語を読む会の「蘇芳の会」がこの六月四日で、三十年を迎えますので、お知らせにもあると思いますが、『五十歳から日本の古典を読んでみませんかー源氏物語を読んで30年ー』の執筆をしておりました。
五月末にようやく書き上がり、至誠堂さんへ原稿をお渡ししたところです。

長い間のご無沙汰をお許し下さい。

正岡子規の歌に「瓶にさす藤の花房短ければ畳の上にとどかざりけり」という作品があります。
また「鶏頭の十四五本もありぬべし」という俳句も詠んでいます。
これらの作品は散文的で、どこがすばらしい作品なのか理解されないことが多いと思います。
この二つの作品の共通するところは、視点です。
それは病床に臥している作者の視点ということです。
このことを考えますと、二つの作品の背景にある正岡子規の心情をうかがい知ることができます。
「畳の上にとどかない」という表現には、己の命の限界を意識していることが伝わってきます。
後者の俳句からは、外の風景を眺められないもどかしさを感じ、同時に限られた位置から、想像の世界に生きることによって、現実の身体を動かすことができない生きざまの苦痛を癒している作者の心情をよみとれます。

正岡子規の作品をもちだしたのは、この春に病床にあった時間が長かったこともありますが、もののとらえかたについて、考えさせられたからです。
一面的に自分が健康であることを当然のこととして、ものごとを見てはこなかったかと、反省させられてからです。

このことは、生涯教育、生涯学習という場にあっても、同じことがいえるのではないかと感じました。
つまり行政サイドでは予算消化のため、年度内計画のためなどといった枠組みのなかでしか考えないのではということです。
生涯学習を必要とする人たちの立場からの計画や予算請求がなされているかということです。

病とはいえ、臥せってばかりいてはなんにもできないぞと、ややもすれば甘えた気持ちになりがちだった日々を断ち切って、これから生きている限り、古典への情熱を燃え立たせたいと思っています。
まずは、ひさかたぶりのご挨拶をということで。よろしく。

(2005年6月掲載)