美しいものにいつもほほえんでいたい

美しいものにいつもほほえんでいたい

いま思うこと ~第3回 私のにがい初夢~

天候異変、つまり地球温暖化を思わせることが、昨年地球規模で起こりました。
同時に人間の愚挙とも思えることの繰り返しもありました。
それらから、もはや人間が絶える時期が来ているのではないか。
また、地球も宇宙の中での生命の宿る青い輝きを失う終末期にきているのではないかと、考える人が多くなってきています。
いまこそ、人間の英知をと叫びます。
こうしたことに背を向けるほど心がねじけてはいませんが、次から次へと考えられない人間の愚行を見るにつけ、すべてが終わりだと感じてしまいます。
今年こそよい年にと念願したいところですが、そう甘くはないと思っています。

日本文化の基本の一つに四季の移りが明確であるということがあります。
季節の移りを大切にしてきた文化を多くもっています。
ですが、近ごろ、季節感を喪失したことが多く目につくようになりました。
「旬(しゅん)」という語があります。特に食べ物にかかわる語として日本人は親しんできました。
しかし、野菜ひとつとっても「旬」を感じさせることがなくなってきました。
いつでもトマトやキュウリやナスがある時代になったからです。
それはものの本質を知らずに、現象的なことで判断する生活に慣らされていることになります。

こうした季節の移ろいに敏感でなくなることは、人間についてもいえます。
他者と同じ空間にいることを忘れ、自分とかかわりのない人には無関心になっています。
野菜を通して感じた季節の移ろい、それを敏感に感じ取る感性は、他者についても同様にあった筈です。
近所のこどもは、自分のこどものように、声をかけ、小さなほほえましいコミュニケーションを構成していました。
こどもの微妙な表情の変化に気づいたものです。

季節感の喪失は、日本文化の基本が崩れだしたことを意味すると、私は思います。
さらに言えば、人為的に季節を平均化してしまったつけの上に、今度は地球規模の季節感喪失の時代に入ってきたと感じます。
季節はずれの天候が多くみられるのはその一例ですが、地球全体が季節を失ってしまったらどうなるかは、想像に難くありません。
まさに氷河時代の到来、そして現在の生命の消滅。これは私の初夢の一端です。

感性の衰えは将来を予想することができないことに通じます。
教育でいえば「読解力の低下」です。
若者達が将来について、何かを描くこともできないということです。
現実がそうさせているのだと、簡単に答える人もおりましょう。
私はそうは思いません。
日本人が読書する民俗であった事を忘れたからだと考えるからです。

さて、あなたは感性をみがく空間をお持ちですか。
本年はこの感性について、言わば「感性の覚醒」についても、書いてみたいと考えています。よろしく。

(2005年1月掲載)