美しいものにいつもほほえんでいたい

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いま思うこと ~第2回 年末にあたって~

暖冬のせいでしょうか、京都の下鴨神社の糺すの森は、12月になっても、紅葉が楽しめました。
この森の東に大きく泉川が、本殿近くから御手洗川、奈良の小川、瀬見の小川と流れています。
新古今集に、下鴨神社社家ゆかりの鴨長明「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたづねてやすむ」の歌があります。
この歌から「瀬見の小川」が有名になったといわれています。
境内の西南に鴨長明ゆかりの河合神社があります。
ここで「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と『方丈記』を記したのです。
この「行く川」は、鴨川とされていますが、私は森の中を流れる小川ではないかと思います。
森閑とした空間をそぞろ歩きしながら、変わりつつある京都を、政権の交替期に思いをはせていたのではないかと思うからです。
ご存じのように、『方丈記』には、京都での大火・大地震・福原(現神戸)への遷都など、めまぐるしく変転する京のありさまと、それに翻弄される人々の姿を克明に記しています。

今年は、天災の多い年でした。
年末には南の島で大津波があり、まさに天の怒りが現実となって現れたのではないかと感じます。
自然への恐怖の感覚を、現代人は忘れています。
寺田寅彦の「天災は忘れられたころにやってくる」ではありませんが、目先のことに追われ、つい人間が貴重な体験から得たことについて、振り返ることを怠りがちです。
忙しさを理由に、また現実に生きるためにを先行させるのも当然なのですが、何かそれらの理由を全面に押し出して、考えようともしません。
誰かが何とかしてくれるのではといった甘えがあるからではないでしょうか。
こうした時、極限状況の緊張した感性をよびさましてくれるのが、『古典』ではないかと思います。

『徒然草・今に遊ぶ』を出版しました。
多くの方に読んでいただきたいと思っています。
それは、『古典』を原点にして、将来の向けての示唆や指針を得ることができるからです。
原典をお読みになるのが一番ですが、一つの読み方・考え方・感じたことを提示して、それについてあれこれと考えるきっかけとなればと、まずは徒然草について書いてみました。

『古典』は学校での教科書だけのものではありません。
日本人にとっての精神のよりどころとなるものと思っています。
こうした姿勢をもって、これからも書いていこうと考えています。
それにはまず、私自身がより古典を読んでいなければと思います。
現代はよいテキストが身近に沢山あります。
年末に読書の時間をもつなど、いいご身分なことと皮肉られましょう。
でもいかように批判されても、古典を通して現代の課題について、発言していきたいと思っています。

 それでは、また。

(2004年12月掲載)